かすみ草の恋

アラフィフの今、出逢ってしまった運命の人。
お互い家庭がありながらも、最後の恋人として大切に愛を育んでいます。

〆は笑顔で

トシとの付き合いの中で

決めているマイルールの1つ、

「〆は笑顔で」


日々の電話も、最後は笑いで終える。


LINEのやりとりも、

最後は笑顔のマークを送り合う。

(これは♡での〆の方が多いかも(笑))


デートの時も、最後は笑顔で手を振り合う。



電話を切るとき、

LINEのやりとりを終えるとき、

ましてやデートの最後は、

寂しくない訳はない。


特に1日身も心も寄り添った後、

それぞれの家に戻らなくてはならないときは

寂しさと切なさで心が痛む。


でも、私は多少無理をしてでも

トシの車から降りる時は

「じゃあ、またね♪」

ととびっきりの笑顔を見せるようにしている。



なぜなら、いつでもこれが

お互い最後の見納めかもしれない、

と思っているから。


日常生活では、当たり前に

明日があることを前提に

計画を立てたり行動したりする。


でも実際は、誰にも明日の保障などない。



大げさな考え方かもしれないけれど、

私は交通事故、天変地異、テロなど、

大きな事件や事故が起きる度に、

もし自分や自分の大切な人が

巻き込まれていたら、

と考えてしまう。


巻き込まれて命を落とした方達も、

今の私たちと同じように、

「まさか自分が」

と思っていたに違いないのだ。



トシとだって、

永遠とまでいかなくても、色々な事情で

しばらく会えないこともあるだろう。


そんなとき、最後にトシが見た私の顔が

泣き顔や怒った顔だったら、イヤだ。


だから、デートの最後は必ず笑顔で〆る。


次に会えるときまで、トシの心の中に

とびっきりの笑顔の私がい続けるように。

人生イロイロ、恋もイロイロ

みなさんのブログを読ませて頂いていると、

恋愛って本当に色々だなぁ、と実感する。


近距離で毎日のように会える方もいれば、

遠距離で年に数回会えるかどうかの方もいる。


毎日のように連絡を取り合う方もいれば、

連絡の間隔が数週間空く方もいる。


ごく普通のカップルのように

デートできる方もいれば、

二人きりになれる場所でしか

会えない方もいる。



自分と違う恋愛事情、

中でも自分が「こうなりたいなぁ」と

憧れるような恋愛を綴ったブログを読めば、

羨ましい、と思う気持ちが出て来るのは

当然のこと。


毎日連絡が来る人

彼に愛の言葉をたくさんもらえる人

しょっちゅう会える人


逆の立場から見たら羨ましいを通り越して

「なぜ自分はそうじゃないのだろう?」

と悲しくなってしまうかもしれない。



でも、

毎日連絡がある、

しょっちゅうデートできる、

愛の言葉が多い、

イコール「彼の愛情が多い」

という単純な計算は成り立たないと思う。


連絡を取り合う頻度や愛の言葉の量は

単純にその人の性格や嗜好によるものだから。



例えば、連絡の頻度に付いて考えてみる。


自分自身が毎日1、2回連絡を取る程度がいい、

と思っているとして。


もし相手に

「愛していたら5分毎に連絡できるはずだ!」

と言われたらどうだろう?


(分かりやすくするため、

例を極端にしています(笑))



最初は相手の希望に合わせようと

頑張るかもしれない。


でもその内無理が続いて

「もう勘弁して!」

と悲鳴をあげるのは目に見えている。


更には、自分の基準を押し付けて

連絡を強要する相手を

憎むようにさえなる可能性がある。



デートの頻度にしても同じ。


忙しさも日常生活のパターンも

一人一人違うのだから、

当然デートの時間を捻出できる余裕幅も

人それぞれ。


ひとつ確かなのは、

仕事や家庭、付き合い、自分の自由時間など

色々と他にすべきこと、したいことがある中、

会うための時間を作り出している、

ということ。


この事実自体が愛情の表れであり、

頻度や時間は全く関係がないはずだ。



愛の言葉に関しては、

女性は言われる方が

もちろん嬉しいし心地よい。


が、例えばホストなど、仕事と割り切って

甘い言葉を口にすることができる人もいる。


そこまででなくとも、

彼女が拗ねるから、

あるいは言ってと何度もせがまれるから、

仕方なく口にする男性も

少なくないに違いない。


つまり、「愛している」「君だけだ」

と何度言われようと、

これまた100%愛情の証明とはならないのだ。



大切なのは、自分が今置かれている現状を

受け入れること。


そして、人と比べないこと。


様々な事情や状況や考え方や嗜好があり、

付き合い方に正解はないのだから。


某有名詩人の言葉ではないけれど、

「みんな違って、みんないい」

のだと思う。

信じるものは救われる?!

最近読んだネットの情報によると、

不倫から離婚にまで発展するケースは

全体の2割にも満たないらしい。


つまり、

「家庭はとっくに壊れている」

「今は無理だけれどいつか一緒になろう」


こうした言葉は、古今東西、

不倫をする男性の決まり文句であり、

一般的にはほぼ信用できない、

ということになる。



では、なぜ私は昨日の記事で書いたように

トシのことを何の疑いもなく

信じることができているのだろうか?


一つには、私が元々信じやすい性格だから、

ということがある。


トシに限らず、人に何かを言われると

「なるほど、そうかもしれない」

と、まず信じてかかる。


T:「こんなに素直な人は、見たことない。

でもよくこれで、今まで無事だったね〜。」

と、常々トシにも言われているくらい。



ただ、こんなに信じやすい私でも、

過去の恋愛においては

疑心暗鬼に苛まれたことはある。


彼と連絡が取れないと、

他の女性と会っているのではないか、

と邪推する。


会えない日が続くと、

彼はもう私のことは好きではないのかも、

と疑う。


そしてその疑いの気持ちを相手にぶつけ、

お互いがヘトヘトに疲れて

別れを選択したこともあった。



そうした過去の失敗から学んだことは、

疑いは自分の心も相手の心も傷つけ、

いずれ二人の関係をも蝕んでいく、

ということ。


例えば逆の立場になったら、と想像してみる。


私がどれだけ言葉を尽くして

愛していることを伝えても、

相手に疑ってかかられたら…。


最初の内は自分の愛が足りなかったんだ、

とさらに愛情を示す努力をするかもしれない。


それでもまだ信じてもらえなかったら、

いつしか疲れ果てて

相手への気持ちも薄れてしまうだろう。



また、恋愛においては

相手の言葉の真偽に関わらず、

信じる方が断然、幸福度が高い。


これは、恋愛以外の命題で考えてみる方が

分かりやすいかもしれない。



例えば、天国の存在について、

「信じる派」「信じない派」

それぞれの立場で考察してみる。


・天国が存在した場合

「信じる派」は、

生前は天国はあると信じて安らかに生活し、

死んだ後もやはり天国はあった、と喜べる。


「信じない派」は、

生前は死んだらそれきりと死の恐怖に怯え、

死んで初めて天国はあった、とホッとする。


・天国が存在しない場合

「信じる派」は、

生前は天国はあると信じて安らかに生活し、

死んだ後は、意識がないのでそれきり。


「信じない派」は、

生前は死んだらそれきりと死の恐怖に怯え、

死んだ後は、証明しようにも意識がない。


つまり、天国が存在してもしなくても、

「信じる派」の方が幸福度が高いのだ。



この天国の存在を、

「相手の自分への愛」に置き換えてみよう。


彼の愛が本当だろうと嘘だろうと、

「愛は存在する」と無条件に信じる方が

ずっと幸せだということが分かる。


「私が彼のことを一番愛しているように、

彼は私のことを一番愛している」


そう頭から信じられたら、

恐れるものは何もないのだから。


これこそ、

「信じるものは救われる」

なのかもしれない。