かすみ草の恋

アラフィフの今、出逢ってしまった運命の人。
お互い家庭がありながらも、最後の恋人として大切に愛を育んでいます。

<<恋愛忘備録>>自分が怒ったり悲しんだりするのって、相手と状況はまったく関係ないんやで論

いつも愛読しているブログのひとつに、
なかなか興味深い記事が載っていた。


その内容はズバリ
「人に期待するな」
というもの。



言葉だけ聞くと、
すごく冷たい感じがする。


だが記事をしっかりと読んでみると
なるほど、そういうことか!
と目から鱗。


長い記事なので、
抜粋してお届けしたいと思う。


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人はなにかに対して怒るとき、
一次感情にある「悲しみ」が原因で
怒りが起こっているんですよね。


なので、なにかに対し怒りを感じたときは
自分がどういった悲しみを抱えているのかを
突き止める必要があるわけです。


しかし、怒りの原因を突き止めたからといって
怒りがおさまるわけではありません。



たとえば、
彼氏からいつもの時間に来る連絡がなくて
「なんで今日にかぎって連絡してくれないのよ!」
とアナタが怒っていたとしましょう。


そんな怒りの原因を探っていると
「いつもくれていた連絡がなくて悲しい」
という一次感情を発見したとします。



そこで、世間でよく言われる方法としては


「そっかー。連絡なくてかなしかったんだね。
分かるよその気持ち。」


といった感じで自分の心を癒やす
というものがありますよね。


実はこの方法ってなんの解決にもなってないんですよ。


なぜなら、自分がなにに対して悲しんでいるか、
その悲しみを作り出している原因を
突き止めていないからです。



では、怒りと悲しみをつくっている原因ですが、
怒りを二次感情、悲しみを一次感情とするなら
僕はその前にゼロ次感情があると考えます。


このゼロ次感情こそが「期待」です。


なにかに期待するから、
怒りや悲しみが生まれるわけですね。



たとえば先ほどの例だとこういうことになります。


「なんで今日にかぎって連絡してくれないのよ!」
(二次感情・怒り)

「いつもの連絡がなくて悲しい・・・。」
(一次感情・悲しみ)

「毎日いつもの時間に連絡くれてたから
今日もくれるはず!」
(ゼロ次感情・期待)



この期待は前提になるものがありまして、
以下の2つになります。


1・自分が当たり前だと思っていること
2・「○○するべき」「○○しないといけない」
という固定観念


1・自分が当たり前だと思っていること


本来ならば、僕たちは生きていること自体が奇跡のはずなのに、
日常で自分の側にいる人やある物に対して
当たり前に存在していると思っていることが多いです。


毎日、当たり前のように存在している人や物に対して
「まさかいなくなったり無くなったりしないだろう」
という思い込みがすでに期待を生んでいます。


2・「○○するべき」「○○しないといけない」
という固定観念


固定観念とは、
過去に自分がかかわった人たちや
経験したことを通じて
「これは○○なんだ、そういうものなんだ」
と信じてしまい、
簡単に変えることができなくなった
思い込みのことです。


恋愛の場合だと、
女性がよく言う
「好きだったらふつう○○してくれるはず」
というのも固定観念に当てはまりますね。


たとえば、
「私のこと好きだったら連絡はマメにするはず。」
という固定観念がある女性の場合、


「私のこと好きって言ってくれてるなら
ちゃんとマメに連絡くれるでしょ?」
という期待が生まれるとしましょう。


そしてこの期待が裏切られたとき、
この女性は怒ったり悲しんだりするわけです。



期待と希望、
この2つの言葉は似て非なるものです。


どちらもベースにあるのは
「そうあってほしいと願うこと」
ではあるのですが、


期待は
「人や状況が自分の思い通りになることを当てにする」
ことで


希望は
「そうなるように自分が努力して働きかける」
ことになります。



「人に期待するな」なんて言うと
ひどく冷たい言葉のように思えてしまいますが、


「期待しない」という言葉の意味を
放棄したり諦めたりすることと思っているから
冷たく聞こえるんだと思います。


「人や状況に期待しない」というのは、


「自分の理想を勝手に押し付けて
そうなるだろうと予想しない」


ということなんです。



そしてなぜ期待してしまうのかと言うと、
「人と状況をコントロールできる」と思ってるから
期待が止まらないんですよ。


残念ながら洗脳でもしないかぎり
人はコントロール不能だし、
状況なんて人が絡めば絡むほど
もっとコントロールできません。


なぜ人と状況をコントロールできると思っていると
期待してしまうのかと言うと、
「自分が頑張れば自分の理想どおりにきっとなる」
という前提があるからなんですよ。



しかし、自分が頑張って理想通りになるのは
「自分のことだけ」です。


自分が頑張っても
人と状況が自分の思い通りになるかは
その時になってみないと分かりません。


なぜなら人は
「そのときの気分とタイミングと状況次第」で
行動パターンが変わる生き物なので、
人が絡む以上は未来の分岐点は無数に存在します。


なので、人と状況はコントロールできないんです。



怒りや悲しみだけではなく、
喜怒哀楽すべての感情は
「自分の心の中だけで」行われていることであり、
「自分がどう受け止めてどう解釈しているか」
だけなんです。


ようするに、
自分が「そういう物事の見方をしたから」
感情が沸き起こるんですよ。



そして不安は、
期待していたことが裏切られそうだから
感じる感情です。


怒りと悲しみを手放すには
「私は一体、なにに期待していたんだろう?」
と自分を振り返り考える必要があります。



こうやって、自分がなにに期待していたかを考え
その原因を突き止めたとき、


「私、勝手になに期待してたんだろ。
バッカみたい!」


と声に出してもいいし心の中でもいいので
自分に言ってください。


これは怒りと悲しみを手放すだけの方法ではなく、
「感情は自己責任である」
と認めるための1つの手段でもあります。



とくに、不安や苛立ちをコントロールできなくて
感情的になりつい相手にぶつけてしまうという女性は、
人並み以上に感情は自己責任であると
自覚する必要があるのではないでしょうか。


たとえばアナタが道を歩いてたら
知らないオカマのビュティーアドバイザーに
いきなり詰め寄ってこられて、


「ンもう!アナタのメイクぜんぜんダメ!
なってないわ!
アンタ、よくそんな顔で外歩けるわね!信じらんない!」


なんてキレられたら
「知らんがな」って思うし腹立つでしょ?



相手のことを知ってる知らないにかぎらず、
一方的に感情をぶつけられた相手は
多かれ少なかれ「知らんがな」って思ってますし、


本人は「なんの悪気もない」ので
一方的に責められる意味が分かりません。


相手がしてくれないことは
「本人がこれまでの人生で習慣にないからできないだけ」で、
そこに好きも嫌いも愛してる愛してないも関係ないんです。



あるクライアントさんが自分の誕生日に
「彼氏がおめでとうも言ってくれないし、
プレゼントもくれないんです!」
とプリプリ怒ってらっしゃったんですよ。


ふつうという概念で考えると、
「彼氏=自分の誕生日を祝ってくれる人」
という図式が成り立つので
怒るのは当然といえば当然なんですが、


そもそも論で言うと
「彼氏が彼女の誕生日を祝わないといけないなんて
一体誰が決めたんだ」
という疑念が生じます。



この男性の行いを見て、
「でもやっぱり彼氏としてありえない!」
と言う女性もいらっしゃるかもしれませんね。


でも、一体なにがあり得ないのでしょうか?


前述のように
「彼氏=自分の誕生日を祝ってくれる人」
という概念は
あくまでも「一般的にみて」
言われていることではありますが、
別にこれが常識というわけではありません。


そして、彼女の誕生日をしっかり祝ってくれる男性が
正しいというわけでもありません。



ほとんどの人が「自分の主観」だけで物事を見て
良いか悪いかを決めていますが、


個人が「正しい」と思う感覚って
「正しそうというそのときの気分」であり、
「今までの経験からそんな気がした」
というぐらいのものでしかないんですよ。


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これでも半分くらいに削ったけれど、
まだかなり長い…(笑)



私がこの記事を読んでハッとしたのは、


「人や状況に期待しない」というのは、
「自分の理想を勝手に押し付けて
そうなるだろうと予想しない」


喜怒哀楽すべての感情は
「自分の心の中だけで」行われていることであり、
「自分がどう受け止めてどう解釈しているか」
だけなんです。


という部分。



恋愛に限らず、私たちは色々な物事に対し、
「○○であるべき」という固定観念を持ってしまう。


「女性が家事をするべき」
「男性が家族を養うべき」
「結婚したら配偶者に一途であるべき」


大方の人がそうした固定観念を持っていても、
自分がそう思わなかったら、
窮屈で不快に感じるだろう。



だが、こと恋愛となると、
自分の「○○であるべき」を
相手に押し付けてしまいがちになる。


「好きなら好きと言うべき」
「好きなら会いたいと思うべき」
「好きなら頻繁に連絡するべき」


これらが決して間違っている訳ではない。


ただ、自分の固定観念と相手のそれがズレている場合、
そうは思わない人もいる、というだけのことだ、
と流すのが得策だろう。



喜怒哀楽などの感情も、
例えば何かについてからかわれたとき、
怒る人もいれば、笑って流せる人もいる。


何か小さなものをもらったときも、
「わぁ!嬉しい!」と心から喜べる人もいれば
「こんなもの…」と怒ったり悲しくなったりする人もいる。


相手が取った行動は同じなのに、
受け取る側の解釈次第で
喜怒哀楽、いずれの感情も湧いてくる可能性がある、
ということだ。



当然のことだが、
怒哀の感情より、喜楽の感情が多い方が
幸せでいられる。


「自分がどう受け止めて解釈するか」
によって、喜にも怒にも哀にも楽にもなるのなら、
なるべく「喜び」と「楽しみ」を感じられるよう
心がけたいと思う。



☆元記事は、コチラ♪
http://damasarenaiwa.com/2018/01/15/oko/